(場所) 塩尻市片丘北熊井町村
筑摩山地の西斜面の緩やかな半島状台地の先端部に位置する平山城である。
この台地は、東方の台地続きが高く、西方の台地先端部が低い。
台地の南と北をはさむ谷も、北側は深く、台地上の谷底との比高差は15メートル以上もある。
このような地形の特徴を充分に活かした縄張りがされている。
本曲輪(主郭)は、東西80メートル、南北72メートルで、
東・南・北の三面に巨大な土塁を構築し、三重の空堀部で取り囲んでいる。
北側は、曲輪上と谷底との間は17メートル近い比高差があり、 自然地形を利用した防御となっている。
本曲輪の東西に設けられた曲輪はいずれも広く、空堀で隔てられていて、
独立性の強い曲輪群によって構成されている。いわゆる群郭式城郭となっているといえる。
これは半島状の台地上に城郭が築かれていることと関係し、
それとともに、城主の勢力伸張や防御上の問題と関係していると思われるが、
この点については今後の検討課題でもある。
「熊井城」は「高白斎記」の二か所に登場する。
武田軍に攻め落とされたあと、武田流の城に改められている。
したがって現在のような大規模な城になったのは武田氏の占領以後のことである。
武田氏が滅び小笠原氏が府中を回復するや、貞慶は溝口美作守に北熊井200貫文の地を宛行い、
熊井城の経営にあたらせている。